おだやかじゃない

気を抜くと意識が無くなってしまいます

20200901

【今日の出来事】

 珍しく朝8時半にしっかりと起床した。シリアルと牛乳、ご飯と唐揚げに野菜ジュース、牛丼…という食事だったが摂取カロリーは予定の数値に収まっている。夜の牛丼を食べられたのは走って消費したおかげだ。

 精神状態は安定している。一か月放置していた皿洗いを済ませたのが証拠だ。充電することすら億劫で本棚に突っ込んであったapplewatchの充電も行い、クレジットカードの登録など設定変更も行った。

 今日は1人寂しく作業に取り組む時間の大切さについて考えた。昨日1時間ほど読書の時間を捻出して不安やストレスが一気に解消された経験がきっかけだと思う。

 自分が薄っぺらく感じる不安を打ち消してくれるのは、しっかりと考えた時間だけだ。継続して考えるには脳の体力が必要で、脳筋は考え続けることでしか鍛えられない。ウメハラもそんなことを言っていたなぁ。

 

【コロナで変わった生活/価値観の変化/善意から差別につながる可能性】

 今でも仲が良い人とは対面で会うが、親しくない人間とわざわざ会うのは気が引けるようになった。万が一にでも高齢の家族に感染させるわけにはいかない。そもそもコロナ以外にも気を付けなければいけない病気なりリスクはあるのだが、私がコロナをうつしました重症になりましたとなれば悔やみきれないからだ。

 新しく知り合った人との不用意な接触は考慮する要素が多い。それに、親しい友人や家族との交流にも差し障りが出てくる。避けられない理由がなければ対面で会いたいとは思わなくなった。身内での楽しい食事の機会は逃したくない。

 私が悪い意味で繊細なだけだと思っていたが、他所からも似たような話をちらほら耳にする。ぼんやりとした「知らない人間への不信感」が強くなってきているのかもしれない。

 話が少し逸れるが、時折ふと考えてしまう悩みがある。今は自分の世代が批判する側として時代に合わない価値観は改めよと声を上げているが、自分が老人世代になった時に同じように批判をされた時にはたして「時代に合わない価値観を持っている」と自覚できるだろうかという悩みだ。

 より良い価値観が広まって欲しいという素直な気持ちはあるが、今自分が信じている価値観を古いから改めろと指摘されたときに問題点を理解することは可能なのだろうか。開き直って道理の分からない若造めと言い返すのか、想像の範囲を超えるような新しい価値観を理解しようと努力ができるのか、今はまだ予想ができない。願わくば柔軟な考え方と余裕のある生活を老後の自分にお与えください!と祈るのが精一杯だ。

 この、価値観の変化を見逃すのではないかという悩みが、今回のコロナで人間関係を築く壁が高くなっているのではないかという疑問を持つきっかけだ。

 今、小さくても確実な変化が起きているのではないか?いつか大きな常識の違いになって未来の自分に対する批判としてやってくるのではないか?と気になってしまう。

 対面や密室でのコミュニケーションに要求される親密度はコロナ以外の理由でも今以上に高くなっているだろうとは思うが、気を抜かずに観察していく必要がある。

  ところで、将来の不安とは別にひとつ心配になる変化が既に起きている。人と対面で会話せざるを得ない仕事を見下したり、下の階層だと見なす考え方出てきていることだ。冒頭に書いた、身内に余計な危険を持ち込むわけにはいかないという私の行動もこういった差別的な扱いに繋がる可能性が大いにあるだろう。折に触れて自分の振る舞いについて振り返らなければいけない。